浄向寺の沿革

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【宗教法人としての浄向寺概要】
◯主たる寺務所     
大阪府東大阪市立花町15番4号
◯法人成立の年月日       
昭和28年11月19日
◯目的             
親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、浄土真宗の教義をひろめ、法要儀式を行い、及び浄向寺に属する僧侶門徒その他の信者を教化育成し、その他浄向寺の目的を達成するための業務及び礼拝の施設その他の財産の維持管理を行うことを目的とする。
◯代表役員                西原法興            平成23年2月4日就任・2月14日登記
◯公示の方法    
本堂掲示場に10日間掲示して行う
◯包括団体の名称及び宗教法人非宗教法人の別           
宗教法人 浄土真宗本願寺派
◯本尊       
阿弥陀如来立像・親鸞聖人絵像・蓮如上人絵像・上宮太子絵像・七高僧絵像・良如宗主絵像
【永照山浄向寺の沿革】

浄土真宗本願寺派末寺。惣道場の時代を経て、元禄2年(1689)、住職釋大安の時に本山より寺号を許可されました。本尊阿弥陀如来立像は、元禄14年(1701)本願寺仏師「渡辺康雲(わたなべこううん)」作で、木造漆塗、背面に寺号を許される前の呼称「河州河内郡額田村惣道場」が記されています。
また当村の西方に、明徳寺(明徳庵)という当院の下寺がありましたが、明治6年に廃寺になっています。
当院の歴史で注目されることは、江戸時代後期(主に文化文政時代)に起こった真宗教学史上最大の擾乱で、本願寺派を二分した「三業惑乱(さんごうわくらん)」(1797~1806)がおこったが、その時功存・智洞(こうぞん・ちどう)など学林の新義派を糺して、その後の教義を主導することとなる学僧「真実院大瀛和上(しんじついんだいえいわじょう)」が若い時より逗留し、当院の住職・僧超(そうちょう)を補佐し、河内・大和を布教したという事実です。
 まさに現在の真宗教学の根幹となる『浄土真宗金剛錍(じょうどしんしゅうこんごうべい)』『横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうべい)』という書は、当院で構想されたといっても過言ではないでしょう。
 幕末の混乱期にあっては、第12世圓隆師は島地黙雷師らと親交があり、後の廃仏毀釈運動に対抗しました。
また第14常圓師の時代には、多くの文化人との交流がありました。常圓師は日本画家であったため、大谷圓泉や速水御舟などが当院を訪れています。
現住職(15世)・西原法興はこの三業惑乱の研究を通じて、宗祖親鸞聖人のみ教えを讃仰しています。
  
        〈山門前の大瀛和上石碑〉
三業惑乱とは何か?

A.三業惑乱の概要
浄土真宗のみ教えは親鸞聖人が主著『教行信証』を草稿された元仁元年(1224)聖人52歳の時を立教開宗の年としますので、早くも800年の歳月を経ているわけです。その間現在に至るまで、平坦な歩みで私たちの手許に届けられているのではありません。時には身命を顧みずに法灯を守りぬこうとした先人のご苦労があってこそ、真実の教えに遇うことが出来るのだと言えましょう。
宗祖や蓮如上人のみ教えが現在に至るまで歪曲したり、中断しては今日の私たちが真実のみ教えに出遇う意義を見いだせないと思われます。
    江戸時代の3大論争
室町時代以降の戦乱に満ちた社会から一転して、江戸初期から中期には次第に社会も安定期をむかえ、真宗教団も学問研究が盛んになってきます。寛永16年(1639)には現在の龍谷大学の前身である学寮が造られて、真宗学の講義も行われるようになりました。それにともない様々な研究者によって学説がたてられ学派が発生し、学説の是非を論争することも起ってきたわけです。
 江戸時代の3つの論争と言えば「承応の鬩牆(じょうおうのげきしょう)」(1653年承応2年)と「明和の法論(めいわのほうろん)」(1764年・明和元年)と、そして今回のテーマ「三業惑乱(さんごうわくらん)」(1797年寛政9年~1806年文化3年)ですが、これらの論争は全て在野の学僧と中央機関である学林との間に展開された論争です。いわば地方対中央という学僧間の宗学論争だったわけです。  しかし、この3つの争論のなかで「三業惑乱」が他の2つと異なっている点と言えば、前者の2つの論争は最終的には中央の学林勝利し、在野の学僧が敗れることで宗学の保持・教団の面目という点でもさほど影響を受けることがなかったわけですが、「三業惑乱」はその逆で、本来ならば宗学を保持すべき中央の学林、特に最高責任者である「能化(のうけ)」が、誤った法義を説いたことにより教団に大混乱を引き起こしのです。その結果大論争に発展し教団内では決着がつかず、やがて幕府の裁定を仰ぐ失態にまで発展してしまったのです。
ついに文化3年(1806)幕府の裁定が下され、在野の学僧たちに勝利がもたらされたという点でも他の2つの論争とは相違しているものです。
惑乱の発端
 それでは三業惑乱とはどのような経緯でおこった論争なのか。在野側(古義派といいます)の主張とは何か。また中央の学林(新義派)はどのような主張をしたのか。その内容をうかがって行きましょう。
 三業惑乱の根元は、古く宝暦年間の第6代能化・功存師の『願生帰命弁』(1762)という著書に原因を求めることが出来ます。
 その当時越前のほうで、異安心が盛んに流行していたので、それを糺すために功存師が福井の録所で龍養らの異安心に対して願生帰命説を主張し、その内容を発刊にしたものが『願生帰命弁』です。
 原因となった異安心とは「無帰命安心(むきみょうあんじん)」と言われるもので、ご本願のいわれを「あゝ」と聴聞する程度が真宗の信心であるとする異説で、帰依信順をして「無有疑心」とするご信心とはかけ離れたものでした。
 この「無帰命安心」の異説を破すために、強く願生帰命説を説く必要があったのだと推測されます。つまり浄土に往生するには、無帰命ではなくて、身業に阿弥陀仏を礼拝し、口業に後生をたすけたまえと唱し、心(意業)には一心に願わねばならないとしたわけです。身・口・意(心)の3つの行為(業)をそろえて帰命するので、三業安心と言われています。
 しかしこの三業安心も無帰命安心と同様に、異安心だったのです。
 なぜなら、正しい真宗のご安心は私たち(衆生)が願うこと(願生心)に力点が置かれるものではなくて、阿弥陀仏から廻施される信心を聞信するものなので、私の願う・たのむという行為を浄土往生の正因としないご安心だからです。
 『願生帰命弁』以降、宗門内では真実のご安心とは何かと混乱する人々も多く出てきました。その最中に功存師が亡くなり、寛政9年(1797)第7代能化に智洞(ちどう)師が就任したことにより、ますます大問題と広がっていったのです。
惑乱の拡大(能化智洞の時代)
 智洞師は願生帰命説をさらに推し進め、『入門六条』を著して学僧の入門書として刊行します。またご病気中の法如上人に代って本山鴻の間で講義をした際にも、この説を強く主張したばかりでなく、従来からの真宗のご法義(古義派)を誤りだと批難したので、一気に三業惑乱が表面化してきたわけです。
 それに対抗して、智洞師の願生帰命説に真っ向から反論したのが、大瀛や道隠らの在野の学僧たちでした。
  まず智洞師の講義に対する反論として16項目からなる『十六問尋』を作成し学林(新義派)に回答を求めました。
 加えて大瀛和上は『浄土真宗金剛錍』・『横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうべい)』を発刊し攻勢を強めます。

一方長い期間を経てようやく学林側も『十六問尋』への反論として『十六問尋通釈』を著し面目を保とうと図るのですが、時すでに遅しという状況でした。教団も大変な混乱ぶりで、転派をする寺院が出たり、地方寺院の代表者が上洛して本山に解決をうながす場面もありましたが、結局惑乱の決着は見られませんでした。
大瀛和上の尽力
 惑乱の発端は宗学上の問題だったのですが、もはや教団内部では決着がつかず、お互いが感情的にも反発を繰り返します。享和3年(1803)には新義派の数百名が本山に乗り込み、それに対して古義派の者が学林を占拠するような事態にまで及び、事件化したので幕府の裁断をあおぐことになるのでした。幕府による取り調べはかなり綿密に行われたようです。
 大瀛和上も何度も幕府まで赴き、智洞師との論争を行いましたが、肺結核をおして上京されていたということもあり、その決着を見ることなく、文化元年(180446歳で築地本願寺でご往生されています。惑乱の終結
 文化2年(1805)にようやく幕府の裁定を仰ぐこととなります。
 その裁定に先立って、新義派の人々は回心状を提出して、古義派の主張するご安心に落ち着いたわけですが、両派に処罰があり本願寺自身も、百日間の閉門を命じられるという厳しいものでした。
 翌文化3年(1806)には、本如上人の『御裁断御書』が発布され、長い間の「三業惑乱」は終結したわけです。
 『願生帰命弁』発刊から約50年。智洞師の能化就任からでも、約10年の歳月を要してようやく解決を見ることが出来たのであります。
 惑乱の影響
 教団内部で惑乱を解決できなかったという衝撃は大きく、2度とこのような論争がおこらないようにと、現在に至るまで宗意安心に関して綿密にご安心が制定されるようになりました。
 現代では学階を取得する際に必ず『安心論題』に基づいた殿試を受けるよう制度化されています。
 またこの安心論題の内容は17論題ありますが、その多くは、三業安心の異説におちいることを防止する論題になっています。

私たちの教団には、このような出来事が過去にありました。
 不名誉な結末をむかえましたが、そもそも当初は純粋な宗学上の論争から発展したことを忘れてはなりません。
 当時は多くの僧侶やご門徒が、宗祖のご法義に学び真剣にみ教えを求めていた時代だったのではないか。
現代の私たちに引きよせて、ご法義のことで真剣に語り合える場がどれほど存在するのだろうかと考えた時に、どちらの時代がご法義と真剣に向かい合っているのかと思うわけです。

B.問題の所在

願生帰命説のポイント

功存師の願生帰命説は次の4点に要約できると考えられます。

 三心即一は欲生心におさまる。またその欲生は他力廻向である。

 何の障礙もない者は三業を表わしてたのむものである。(三業帰命)

 帰命の心の覚・不覚についての問題

 願生帰命は常頼みではないこと         以上の4点です。
 なおⒸⒹⒷを運用する上で発生した項目ですから、大まかに捉えるとⒶⒷの2点がポイントと考えられます。さらにⒷはⒶの学説を具体化する表現ですので、結論的にⒶが功存の願生帰命説の中心であると言えましょう。
 Ⓐが願生帰命説の中心であって、まさに三業惑乱の原因となった学説であります。

功存師が説く帰命とは、命に帰することであり、その命とは弥陀の教命であり衆生に一心に願生せよ、必ず救うと喚びたまう教命であると説きます。よってこの教命を聞得(もんとく)したすけたまへと欲生心が起こった一念に、この欲生心が浄土往生の正因であるとします。その他に至心信楽の相を心中に求めるべきではないというのが功存師の学説なのです。
 それでは果たしてこの願生心は仏の教命といいますが、衆生心中の願生心が(他力廻向にせよ)衆生の意業の働きによるものであると考えるならば、往生の因果に衆生が起こす意業の作用が関与してくることになるのではないかという疑問も起こってきます。
 衆生の願生心(欲生心)という意業の働きが往生の正因と成り得るかという点については大きな疑問点が残るところでありましょう。

②三業帰命説について
 次にの三業帰命説についての問題を述べると、願生帰命説とⒷの三業帰命説の相違は、帰命に於ける本質(Ⓐ)と表現(Ⓑ)の相違であると考えます。功存師はの願生帰命の論理に基づいて、帰命の一念には必ず仏前に向かって三業を表わすべきであると説いています。
 つまり『願生帰命弁』の中で三業帰命を主張する箇所で、
 善知識の教えにまかせ身業仏に向かい合掌敬礼して口業に阿弥陀如来我が一大事の後生たすけたまへと 申し、心に念ずること口業の如くかかる出離の縁なきものをたすけたまへと一心に帰命する時、御た すけ一定と信じて疑いなきをこそ、帰命の姿とは言うべし

と願生をもって帰命の内容とし、その願生の信相には必ず三業の表現が伴うべきことを主張するわけです。
 加えて「この三業は因果ことごとく仏廻向の所作なれば帰命の三業も仏の三業より起こり本願の招喚よく行者をして安養仏に回願せしむ」と、三業帰命も如来より廻向された他力回施の三業であると主張していくわけです。

C、真宗信心の特徴

信心獲得の衆生には、阿弥陀仏のご本願のお働きが届けられているですから、もはや衆生の願生心が介在するのではなく、そのご本願の働きに対して、大きな慶喜心や報仏恩の思いが存在するものであると考えられます。
 宗祖が「信巻」の「現生十益」に「心多歓喜の益」「知恩報徳の益」を説示されていることに注目すべきでしょう。
 同時に「大慶喜心即ち是れ真実信心なり」と示され、また「正信偈」に「慶喜一念」とあり、『唯信鈔文意』にも「この信心をうるを慶喜といふ」と慶喜心を信心の異名として使われています。
 『願生帰命弁』は、無帰命安心を破する為に出版されたという性質上、その中心を希求の心行に重きを おいて主張された結果、願生心を決定要期の心と捉えることを説かれなかったと言えましょう。
しかしながら宗祖の願生心(欲生心)は、信楽の義別とされ、決定要期の心と説かれています。
 お示しの通り願生心そのものは信前及び信の一念にも、信後の相続にも生涯を通じて不断の心ではありますが、それをもって往生の正因とするものではないのです。
 くしくも功存師の先輩である道粋師(17131764)が『帰命弁問尋』で、「帰命とは正報(阿弥陀仏)に帰することで、願生は依報(浄土)に生れることを願うことだから、心が一箇所に落ち着きながら願生を主とすると言っているのは如何なものか」と諭しているように、仏勅を現前のものと領受している行者ならば改めて三業帰命(願生帰命)する必要がないのであって、三業帰命説(願生帰命説)に対する指摘はこの一点に集約すると考えられるのです。

 浄土真宗はあくまでも信心をもって涅槃の真因とし、その信後の信仰生活を云えば、常に仏恩を報ずる思いのもと、大慶喜心、大安堵心を懐く生活をさせていただくものと言えましょう

大瀛和上と浄向寺

 大瀛和上は、もともと安芸山県郡中筒賀村の出身でしたが、何故河内国の当院(淨向寺)と関係があるのかと言えば、以下の通りです。

大瀛和上は安永五年(1776)18歳の時、安芸国から上京(京都)して、初めて学林に懸席します。つまり本山の安居に参加したのです。その聴講内容は皆ことごとく記憶したと言います。昔は安居の期間が今よりも長くて、2ヶ月位あったそうです。
 
その安居が満席の時に河内国水走村にいたって僧超に会います。僧超は大瀛和上と同郷の人で、山県郡加計村津波の出身で、額田の淨向寺と水走の法性寺の2カ寺の住職を兼職していたのです。
 
僧超は以前から大和の国で「浄土和讃」の講義をする約束をしていましたが、何らかの理由により出講出来なくなりました。おそらく僧超は医者でもあったので、急患でもあったのかも知れません。そこで大瀛和上が代講することになったのです。
 
その時大瀛和上が大和郡山の光景寺(現在大和郡山市の今井町の光慶寺)で「和讃」の講義をすると、その卓越した才能により、名声が大和地方のすみずみにまで弘まったといいます。

 和上はそれ以降、毎年学林で安居の懸席をしておられるようですが、安居期間が終った後も、すぐに安芸国に帰郷せずに、たびたび当院を訪れて同郷の僧超住職と楽しい時を過したのです。
 淨向寺もその当時は大変ゆったりとした時代だったのでしょう。江戸時代後期には、ご門徒数が15~16軒だったと言いますから、隣村の水走村の法性寺の住職を兼務しても、合計でもわずかな門徒数だったのでしょう。
 
僧超(超公と言われています)も各地に出講して講義をしていますから、自坊でゆっくりと研究をして、要請があれば他寺に出向くという学者だったのです。これを在野(ざいや)の学僧と言います。
 筒賀村の大瀛和上の生家である森家(現当主・森大策氏)には和上が作詩した、小さな漢詩集があります。縦18.7㎝横12.6㎝で合計9枚の小冊子です。和上は若い時より好んで漢詩を作られたのです。
 
その第二番目の詩題に「秋日寓淨向寺・在河内東山」とあるのは当院のことです。天明6年(1786)和上28歳の時の作成だと推測されます。
 大瀛和上は当院を僧超をしたって訪ねて来られたのです。この漢詩も本山の安居が閉幡してから当院にゆっくりと逗留し、同郷の先輩の学友・僧超と故郷のことを話したり、宗学の問題について夜更けまで議論をしたりして、親交を深めていかれたのではないかと思うのです。
 宗学の世界において大変著名な学僧であり、現在の浄土真宗の正意安心を護ってくれたのは和上らの古義派学僧たちの功績であると言えるのですが、そのような学者と淨向寺とは、僧超という江戸時代中期(安永~天明)の住職を通して、深い縁で結ばれているのだと知られます。
 時代を超えて、200年後の私が今、本堂に座して仏典を拝読する時、遠い昔に、大瀛和上も、この本堂で勤行し、研究生活をおくり、漢詩を作ったりしてゆるやかな時間を過しておられたのだと、体で感じ取ることが出来るわけです。
 大瀛和上はその後、寛政9年(1797)39歳のころから争われた「三業惑乱」の為に東奔西走され、結局惑乱の結末を見ずに、46歳の若さでご往生されました。現在築地本願寺の境内にも、和上の顕彰碑が建てられております。