河中北組では35ヵ寺を4つの班に分け、各班ごとに毎年3月頃に『ご消息』をご披露する「河内呉服講御消息披露法要」を勤修しています。各寺院とも大変多くの参詣者があり、講中の熱心さにより時代を超えて本山護持がなされていることを感じさせる法要です。
それでは「河内呉服講」の沿革について、少しご紹介しておきましょう。
第1に講とは講義・講釈・講習の意(元来の意味)であるということです。
第2に名所旧跡に参詣の為に集会したことを講という場合があるということです。例えば昔は一生に一度はお伊勢さんにお参りさせてもらおうといったようですが、そのお参りの準備や打ち合わせ・積立金などを持寄ったりした集まりを「伊勢講」といったようです。同様に京都にお参り遊山の為に集まったのを「京講」ということなどです。
第3にこの「河内呉服講」などのように、信徒が相談し、祖徳を讃仰するために集会を持つことを講というのだということです。例えば「報恩講」「尼講」のようなものです。
真宗における講の意義は、信徒が自らの安心を語りお互いの信仰を確かめ合うという点がなければなりません。蓮如上人も「ただ酒飯茶ばかりで退散」することは大変残念なことであると仰っておられます。
当院住職が調べたことですので大変雑なことで、この点は有識者の方にご指導を仰がねばなりませんが、まず中国の歴史において、東晋孝武帝の太元15年(350)に廬山の慧遠が123人の僧侶とともに白蓮社を結成して、念仏修行したという記録があります。これなどはかなり古い記録で、講の歴史からいえばかなり初期のものと言えるでしょうか。尤も人が何人か集まって物事を話合えばそれは講ということになるとすれば、更に古代にまで遡れるでしょうが。
次に日本においては、古くは奈良時代では、まだまだ仏教自体が中国を経て朝鮮半島の百済から輸入された外来思想と捉えられていたこともあったのでしょう。その思想が説かれている経典を紐解き・講義講釈して受用していこうという時代であったと思われるのです。一部行基菩薩のように宗教的信念から、世人の為に公共事業をしていこうと実践する信仰者もおられたことは事実ですが、かなり少数であったでしょう。一般的に南都六宗は自らの所依の経典を研究・分析していく時代であったといってもよいでしょう。
またこのころから法華経・金光明最勝王経・仁王般若経を護国三部経として、僧侶に国家鎮護を祈願させたといわれており、最勝講・仁王講や唯識講などが見られます。
平安時代には、最澄・空海が天台宗・真言宗を開き、ようやく仏教が貴族階級などの信仰となっていったと言えますが、その仏教的基盤は国家の仏教という位置付けでありました。例えば、毎年5月の5日間に四大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の僧をよんで、宮中において最勝王経を講義させ国家安泰を祈らせた法会が行なわれていました。長保4年(1002)から恒例になっていたようです。
鎌倉時代以降に開かれた浄土真宗では、第三代宗主覚如上人が親鸞聖人33回忌をお勤めされるに際して『報恩講式』を書かれて、親鸞聖人の「報恩講」を勤修されたのです。
ちょうどこの頃には、存覚上人の『破邪顕正鈔』には「念仏勤修の日は一道場分おおむね一月に一度なり」と記されていますように、毎月一度位の割合で講社が開かれていたようです。これが第8代蓮如上人の時代になりますと、『御文章』でも度々著されていますように、毎月両度の講と言って特に法然聖人の命日25日と親鸞聖人の命日の28日の2回程度の割合で講がもたれていたようです。
1.講の集合日を講の名前にしたもの
朔日講(1日)から晦日講(30日)まで、すべて講があったといいます。特に逮夜講や両度講は多かったようです。
2.法要に必要なものを本山に献上する
仏飯講・焼香講・灯明講・蝋燭講・お花講など
3.荘厳に必要なもの
戸帳講・打敷講・障子講・畳講など
4.接待に必要なもの
油講・味噌講・醤油講・煙草講・椎茸講・大豆講など
5.台所用品を献上する
炭講・お椀講・平皿講など
6.労務関係の講
人馬講・番方講・掃除講など
7.人数を講の名称にしたもの
十人講・十八人講・三十人講・百人講など
8.その他として
接待講・御賽銭講・お茶所講・お斎講など
9.他宗の講社
地蔵講・涅槃講・梵字講・泰平講・弘信講・護摩講など
*浄向寺では戦前までは、「和讃講」という講社が存在していました。書庫を整理していた時に、親鸞聖人「三帖和讃」を一首ずつご本尊のように仏表具したものが出てきましたので、何に使用したのかなと不思議に思っていましたところ、当院の古い文献に「和讃講」の記載がありましたので理解ができたのです。毎回一首ずつ和讃を表具・奉懸するとともに、ご講師から当該和讃のご法話を拝聴し、祖徳を讃仰してものです。
このように講社は全国に多数存在し、最盛期には3000もの講社があり本山を護持していたと言います。逆に言えば本山で必要なものはことごとく講社が存在したと言えるでしょう。
同一の意味を持つ講社が多数ありますので、その講社の冠頭にその地域名を付けるのが一般的でした。例えば九州椎茸講・泉州お花講・川北真実講(福井県丸岡市)・江州番方講や摂津13日講などのようにです
浄土真宗の講社は、女房講・尼講・女人講・お歯黒講のように女性に由来した講社が多く存在し、活発に運営されているということが大きな特色であると言えましょう。
本来的にはどの宗派においても仏教教団である以上、釋尊以来の伝統として女性の出家得度を認め、重要視すべきでありますが、歴史的経緯によってか、女性を修行を妨げる存在のように誤解し遠ざけてきた教団もあるようです。
浄土真宗では親鸞聖人は勿論のこと、蓮如上人においても大変女性を大切にせられ、重要視されてきたことはご承知の通りです。
現代では尼講などは、「仏教婦人会」と現代風に名称が変化したものの、女性を中心とした活動は今でも健在であります。どの寺院におうかがいしても、必ず婦人会を中心としてご法座が運営されていることがわかります。また参詣者も男性よりも女性の方が圧倒的に多数な事が現状です。
その名称の通り昔は絹羽二重一匹をご本山に上納しました。
ご承知のように、ご本山では毎年1月9日から16日まで「御正忌報恩講」が勤修されるのですが、それに先立って、御影堂に安置される親鸞聖人のお木像を、前日の1月8日のお晨朝に引続き「大御身(おおごしん)」の儀式が行われます。その際に、ご門主様自らが屏風を巡らせた中で、大盥に移されたご真影様を、お湯で絞った絹布でもって、あたかも生きた聖人の身体を拭うが如くに丁寧にお身拭いされるのです。この時の絹布を献上させていただいたのが、「河内呉服講」の由来であるのです。
第14代寂如上人の頃より世の中が安定し、河内地方の経済的基盤も安定期に入ったといえるでしょうから、その頃より全国各地で、本山を護持しようという活動が活発になってきました。
また明治になって近代化がはかられて講社も「会」へと名称を移行していきましたが、その本山護持の本質は変わることがありませんでした。
平成10年に本山に登録されている講社は全国で415社存在します。
講社は過去の遺産ではなくして、現代における同信同行の集まりであります。
特に新宗教でも勢力のある教団は、ほとんど蓮如上人の講社の方法論を模倣して展開している教団であることを考察する時、決して現代においても講社の方法論は古いものではなく、むしろ方法論さえ間違えなければ、充分現在においても重要な組織なのではないかと考えます。
蓮如上人は講社を「仏法興隆の根源、往生浄土の支度」であると言われましたが、講社を「法味愛楽の場」「仏法聴聞の勝縁」であると胸に抱いて活動する限り、私にとってもまた教団にとっても大いに意義のある存在であるといえるでしょう。
*当院住職は、平成21年度より平成31年度まで、「河内呉服講」のご本山御使僧を拝命しました。
蓮如上人のこの講社の組織は教団としても大変有益なものであります。現代の教団運営においても十分に応用できるものと考えられます。